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近藤 坦平

1月 18, 2012 投稿者 碧南市

プリントイメージ

東海初の洋式医学校を開設、地域医療にささげた白髭先生


 近藤 坦平 (こんどう たんぺい) 1844年~1929年



 新しい医術を求めて江戸へ
 近藤坦平は、弘化元年(1844)、碧海郡鷲塚村に祖父、父、伯父が医者という家系に生まれた。
坦平は18歳のとき、父の勧めで、岡崎で医者をやっている宇都野龍碩と共に医術を学ぶために
江戸に行った。ところが龍碩が藩の事情で1年もしないうちに帰郷することになり、やむなく坦平
も帰郷した。
 翌文久3年(1863)江戸留学への思い捨てがたく、龍碩の弟碩遵を伴い再び江戸に出た。時の
将軍家茂が上洛した年である。西洋医戸塚静海に学んだが、戸塚は忙しく、直接学ぶことが出来
なかった。そんなとき、長崎から戻った松本良順に学ぶ機会が得られ、碩遵らと共に喜び学んだ。


 長崎に留学
 松本の下で1年が過ぎようとしていた元治元年(1864)、松本の長男と共に長崎に留学した。長
崎では、精得館(日本最初の西洋式病院)においてボードウィン、ポンペなど当時有名なオランダ
の医学者に学んだ。そこで、橋本綱常や長与専斎らと交流をもった。
 しかし、長崎に学んで3年が過ぎた頃から幕末を迎え、世情が穏やかならない状況になり、学友
は故郷に帰ったり、江戸に出た。坦平も長与らに江戸行きを勧められたが、故郷で親の跡を継ぐ
ことを決意し、帰郷の途についた。慶応4年(1868)のことであった。


 大きく変動する社会、鷲塚騒動に遭遇
 明治元年(1868)24歳で郷里に帰った。すぐに岡崎の宇都野龍碩の16歳になる長女の多田と結
婚し、地域医療への第一歩を順調にスタートさせた。
 しかし、時代の波は鷲塚にも及んだ。新政府による「廃仏毀釈」の方針に関する菊間藩の出方に
不満をもった寺の住職たちと本願寺門徒衆が菊間藩役人と騒動をおこした。明治4年(1871)のこ
とである。坦平もけがの治療にあたったと思われる。多くの負傷者が出、役人の1人藤岡薫が殺さ
れた。後に騒動をおこした首謀者や関係者が処刑されるなど大きな傷跡を残した。


 「洋々堂」「蜜蜂義塾」の立ち上げ
 鷲塚騒動翌年の明治5年(1872)、坦平は父の引退を受け、完全な蘭方医として「洋々堂」という
看板を上げた。ところが村人は、なかなか蘭方医学がなじめず、しばらくは嫌がられた。
 また、坦平は明治5年、「蜜蜂義塾」も同時に開設した。当初は洋々堂の不振と重なり、4名の塾
生からの出発であったが、医院の隆盛と共に、明治8年(1875)頃になると、東海地方で唯一の西
洋医学塾として塾生の数も増え出した。
 この年、父は坦平の弟良薫と末弟浩平が東京や横浜で生活していたこともあり、父の従弟の子で、
良薫と生活し、神奈川県医になろうとしていた水平を養子にした。その後、坦平の義弟になった水平
は蜜蜂義塾の副塾頭として、坦平の片腕となった。その翌年明治9年(1876)には、塾生も80名を越
すようになり、洋々堂は病院や塾で大所帯になり、地域と一体になって大繁盛した。


 地域医療に専念
 何もかも順調に進んでいた明治9年長男が夭折したり、ふくらんだ塾の風紀が乱れたりしたが、妻多
田の聡明な協力もあり、立ち直っていった。明治12年(1879)には、三男乾郎が産まれた。名古屋に
愛知県医学校が出来たこともあり、塾生も適正な人数になり、近郷はもちろんだが、静岡や長野、県
内でも幸田、幡豆、半田辺りからも患者が泊まりがけでやってくるようになった。民家が病室になった
り、宿屋やいろんな店が出来、洋々堂のお陰で村が繁栄した。また、坦平は愛知県会議員の選挙で
副議長に選ばれ、新しい活躍の場が広げられることになった。
 しかし、明治12年義弟の水平が西尾に「近藤医館」を開き、鷲塚を去った。明治15年(1882)、坦平
38歳の年、医学校通則が出され、運営上困難であることを悟り、坦平は蜜蜂義塾を閉じることを決断
した。更に漢方医らの抵抗もあったりしたが、時代の流れに背くことなく生きた。
 また、坦平は地域への寄贈を惜しみなく行い、人望、財力ともに恵まれ、人々から尊敬された。


 野口英世の手を手術した娘婿、近藤次繁
  洋々堂が栄えていた明治23年(1890)、坦平の長女おきては、信州松本の藩士鶴見家の二男で、帝
国大学医科大学(現 東大医学部)の学生次繁を婿養子に迎えた。次繁は、洋々堂を手伝ったが、明
治25年(1892)にドイツなどに坦平の援助で留学した。3年後帰国し、洋々堂を洋々医館と改称した。
 明治30年(1897)、次繁は東大助教授として上京した。そこで野口英世の手の2回目の手術を無料
で行った。その後日本の外科学を欧州の水準にまで高め、外科学の権威として名を馳せた。岸田劉生
作の「近藤医学博士像」の油絵も残っている。


                          (碧南を駆け抜けた熱き風たち-碧南人物小伝-より)


■近藤坦平関連の人物


1 近藤 良薫(りょうくん) 坦平の実弟
  福澤諭吉に学ぶ。良薫の妻甲子(きね)は、福澤諭吉の養女。横浜(賛育病院)で開業。
  神奈川県医師会を作る(初代会長)。


2 近藤 乾郎(けんろう) 坦平の3男(跡継ぎ)
  明治12(1879)年5月13日~昭和40(1965)年10月17日
  明治45(1912)年5月 洋々医館長となる。
  大正3(1914)年 東京四谷に近藤病院を開設。


3 近藤 次繁(つぐしげ) 坦平の婿養子
  慶応元(1865)年12月1日~昭和19(1944)年3月4日
  東京帝国大学 医科大学外科教授 日本外科学会創立者
  日本臨床外科医学会 初代会長
  日本医科器械学会 会長
  日本で初の腹部内臓手術を行う。
  明治30(1897)年 野口英世の左手の再手術を行う。


4 近藤 水平(すいへい) 坦平の義弟
  明治8年西尾市で開業(洋々医館 西尾分院長→近藤病院)
  ※近藤病院は、水平の孫の尚夫の代まで開業。


5 近藤 照夫(てるお) 水平のひ孫

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